承前 朱色5千基鳥居 伏見稲荷大社 その1(秦氏の聖なるライン)
承前 伏見人形と甲子園球児
親戚の法事と親父おふくろ兄貴の墓参りの為に京都に帰省した。来年1月に娘がメキシコから帰省してくるので、是非、伏見人形を渡したいと思い人形を購入に伏見稲荷大社も参拝した。
全国に3万社存在する稲荷神社を束ねる大社です。この神社と秦氏や平安京との関係について今まで随分と記事を書いてきました、過去の記事を参照下さい。
狐さん、稲穂をくわえています、農業の神さんでもあるんですね。だから、稲を食べる『スズメ』は害鳥として参道で『スズメのピン焼き』を売っていました。
最近、外人に一番人気な場所は伏見稲荷大社だそうですね、仰山の観光客がおられました。
宝珠の形をしていますね
伏見稲荷大社を出て伏見街道を右に(北)に行くと伏見人形窯元の『丹嘉』があります。現在は7代目のご主人がおられます。
ところで、この伏見人形『寿老人』はご主人が特別に見せてくださったもので、天正3年銘がありました。
信長が死んだのが天正10年ですから、信長の時代には既に伏見人形は存在していたんですね。
伏見人形の事はもう亡くなられた、伏見在住だった考古学者 森浩一先生から教えて頂きました。
農業の神である伏見稲荷大社さんの土を持ち帰り自分の田圃に撒き豊作を祈った農民の為に深草にいた土師氏の子孫たちは土人形を製作したんですね。窯元のご主人の話では農民は伏見人形を自宅で粉々に粉砕し田圃に撒いたそうです。
確か崇神天皇の時代に古代最大の戦争、タケハニヤスとの戦いがありましたが、その時にタケハニヤスの奥さんは隼人の娘ですが、香具山の土を奪い呪いをかけたという話を思い出します。
昔はこの伏見街道に70件近い窯元が存在したそうですが、今は1軒しか存在しないのではないでしょうか。国際化の時代、伏見人形も再起をかけて中国や海外からの観光客のために何か新しい形の人形を提案してはどうだろうか。
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