最近の奈良盆地では南東部の三輪山山麓の纏向遺跡と南西部の葛城関連遺跡が注目を浴びている。三輪山の南の桜井茶臼山古墳から北に箸墓古墳を盟主とする纏向古墳群、そして柳本古墳群、大和(オオヤマト)古墳群、と巨大古墳が南北に連続し歴代大王の墳墓だと考えられ、天皇家に関係が深いのがこの奈良盆地南東部の地域である。
それに対して、金剛山、葛城山、二上山の麓に広がる葛城を本拠に応神天皇以降の天皇に次々と一族の女性を入内させ5世紀末まで天皇家の姻族として権力を握ったのが葛城一族である。しかし、雄略天皇に滅ぼされ突然に歴史の表舞台から姿を消し、5世紀の頃の活躍の歴史も消された。しかし、葛城一族は分散し、京都盆地に鴨氏・秦氏は移動し、蘇我氏は河内飛鳥に移動し名前を変えて日本の歴史を動かした。
1. 纏向遺跡の祭祀建物に匹敵する遺跡の発掘
橿考研では最近大きな成果を出しています、中西・秋津遺跡の発掘で弥生時代からの大規模な稲作の痕跡と人人の住居跡や古墳時代初期、即ち4世紀初頭の溝と柵で南北100㍍、東西150㍍の方形に区画された施設跡を確認した。これは纏向遺跡の祭祀遺構に匹敵する遺構であり『日本書紀』や『古事記』に記録された第6代孝安天皇の宮殿『秋津島宮』ではないかと推測されている。
参考 秋津遺跡報道関連
参考 JoBlog 葛城王朝の栄華の址 秋津遺跡発掘(橿考研)10・11・30
勿論、未だに学会では欠史8代とか呼ばれ第10代崇神天皇までは虚構であると言われている。しかし、この欠史8代天皇は何らかの伝承をベースに存在したとすれば、5世紀末に消された葛城氏に関係する大王であった可能性がでてきます。孝○天皇と呼ばれる天皇は殆ど葛城氏系統であろうと思います。(5代孝昭天皇、6代孝安天皇、7代孝霊天皇、8代孝元天皇)
秋津遺跡の近くには鴨都波神社(かもつば)があります、祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)さんです。出雲の国譲りに関係した神ですが、大国主さんの息子で神の宣託に関わる神です。書紀と先代旧事本紀によれば、神武天皇の奥さん、ヒメタタライスズヒメは事代主さんと三島の豪族の娘の間に生まれた娘だと伝承されている。しかも、事代主さんが大きな鰐に化けて出かけて行き生ませた娘だそうです。
参考 葛城の古代の記憶
参考 葛城南部の遺跡を歩く
ヤマト王権を開祖した神武天皇を支えたのは葛城氏ということになります。また、河内王朝とも葛城王朝とも呼ばれる応神天皇から武烈天皇までの王朝に二人の天皇を除き全て皇后を送り込んだ葛城氏の権力基盤は絶大だったと推測されます。実は、応神天皇を生んだ神功皇后(おきながたらしひめ)の母は葛城の女であり彼女は葛城で生まれている。勿論父は琵琶湖から海外交易の海人である息長氏です。
葛城氏の中で一番活躍したのは宮山古墳に埋葬されている、葛城襲津彦ではないでしょうか。全長238㍍の前方後円墳に埋葬され朝鮮半島で大活躍をしました。彼の活躍は全て朝鮮半島での成果です、百済・新羅を巻き込み南下する高句麗と戦いました。そして、高句麗の騎馬軍団が凄い破壊力を持つ事を学び、彼は倭国でも騎馬戦法が重要であると伝え古墳時代の墳墓に多くの騎馬関係の武具が埋納され始めた。そして、外交面では高句麗と均衡する為に南朝と交渉し、その後の河内王朝(葛城王朝)の大王、所謂倭の五王の遣使となる。
参考 『謎の古代豪族 葛城氏』(平林 章仁)
今後も纏向遺跡の発掘と葛城 中西・秋津遺跡の発掘は楽しみです。
この記事へのコメントは終了しました。