承前 宇治上神社界隈
承前 宇治・兎道・氏・うじ
京阪電車、宇治駅のホームからこの二子塚古墳(伝・兎道稚郎子墓うじのわけいらっこぼ)を望む事が出来ます。
宮内庁では日本書紀に従い、応神天皇の皇子であり日嗣の皇子であった菟道稚郎子は皇位を弟の仁徳さんに譲り宇治川に入水自殺した説を採用し、陵の文字でなく墓と記載されていた。
播磨国風土記では彼は応神天皇崩御のあと即位し、宇治天皇と呼ばれたと記録されているそうです。
応神天皇はそれまでの崇神天皇の王朝とは異なる王朝であるという考えがあり、仁徳さんに連続する王朝を河内王朝と呼ぶ研究者が多いです。河内王朝は葛城氏に支えられた王朝と考えられており、それまでの崇神王朝(三輪王朝とも呼ぶ)を支えた豪族と異なると考えられている。
巨椋湖東岸の水運の要の地である古墳の場所の近くは木幡や岡屋津と呼ばれ日本海から琵琶湖を経由し宇治川経由で淀川、木津川を経由し瀬戸内海や奈良盆地に物資を運ぶ交通の要であった。
秀吉の時代には宇治川が運ぶ砂の堆積で琵琶湖からの舟を淀川・桂川水系に接続できなくなり、太閤堤を築き水路を二子塚古墳から伏見まで切り開いたそうだ。太閤さんが淀城や伏見城を築いた背景に、古代からこの場所が交通の要である事を知っていたからだと推測される。
故・木幡翁(Muさん)は木幡に在住されこの辺りの歴史背景には詳しい人でした。
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