アンコール・ワット 回廊には有名な森本右近太夫一房の落書が残されています。三カ所存在したが、ポルポト兵により削除並びにペンキで塗り消されたが、この壁だけは青いペンキを剥がし元の落書が何とか読める状況になりました。この写真でも、国日本とか森○右近という字が読めますね。
落書に書かれていた記録は、『寛永9年正月初めて此処に来る、生国は日本、肥州の住人、森本右近太夫一房、仏四体を奉る』だったそうだ。彼は加藤清正の家臣であったが、加藤清正が亡くなり、平戸藩の藩士となるが、父母の菩提を弔う為に1632年に朱印船に乗りアンコール・ワットに参詣した。
彼は此処が祇園精舎であると思いこんでいたという、参詣を終え無事に帰国したという。しかし、その後日本は鎖国となり海外との行き来は御法度となった。右近太夫のルートは多分推測するに、現在のベトナム・ホーチミンのメコン河河口から遡上したのではないかと推測する。又は、現在のタイ国、当時のシャム王国のバンコク、チャオプラヤー川を遡上しアユタヤの日本人町を拠点にアンコール・ワットに向かったかも知れない。
戦国時代が終わり活路を海外に求めた可能性もあるのではないだろうか。右近太夫の20年前、1612年には山田長政がシャムのアユタヤに到着し、大活躍を始めた頃だった。倭人の血が騒ぐ大航海の時代である。
鎖国により黄海や東シナ海で大活躍をしていた海人としての日本人は、その後長い眠りにつく事なったのは残念だ。
最後の写真はアンコール・ワット創建者であるスールヤヴァルマン2世の墓である。以外に小さいのに驚かされる。
By: Indie Jo
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