2009年秋に奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から大型建造物の遺跡が発掘されて、話題を喚びました。その話はいずれ詳しく記事にするつもりです。
この写真は纒向遺跡の近くにある三輪山の北側に位置する狭井神社です。正式名称は狭井坐大神荒魂神社(さいにまします、おおみわのあらみたま)と申します。直訳しますと、狭井という所におられる、大神(三輪神社)の荒ぶる神、となりましょうか。古来日本の神々は、和らぎの顔と荒ぶる顔の二面性があります。ですから、大神の荒ぶる面を祀った神社という意味になります。
現代は大神(おおみわ)神社の摂社になっていますが、歴史書によれば、古代は大和(おおやまと)神社の別宮だったようです。古代の神は様々な顔と名前を持っていますので、正確には分かりませんが、崇神天皇の時代に皇居に祀っていた天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)とを分け、後者を大和神社に祀られたという伝承があります。つまり大和神社に縁の深い狭井神社は、このあたり一体の生来の神(地祇)を祀っていたと言えます。そしてまた、大神神社も生来の神、大物主神を祀っています。
話が錯綜してきましたが、日本には沢山の神がいて、狭井神社は昔も今も、このあたり一体の土着の神の荒ぶる側面を鎮める神社と言えます。
それが邪馬台国とどういう関係を持つのかは、一言二言でまとめることはできませんが、狭井神社は卑弥呼の後の近い時代に造られて、二重三重に三輪山や纒向地帯の安全を保証するための神であったと想像しています。伝承では、崇神天皇(10代)の次の垂仁天皇(11代)の治世に祀られたとあります。
それにしても三輪山の禁足地に入るには、この狭井神社から道が通じているのも、謎々しい話です。
by 浅茅原竹毘古
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